浄土真宗とは

浄土真宗善源寺の概要

  • 【宗 派】 真宗出雲路派
  • 【宗 祖】 見真大師親鸞聖人
  • 【本 山】 出雲路山毫摂寺
  • 【本 尊】 阿弥陀如来
  • 【経 典】 浄土三部経
  • 【教 義】 阿弥陀如来の本願を信じ、お念仏申さば、仏になるその身の幸せに自らの生きがいを見出し、まことのいのちに目覚めたよろこびの上から、「世のなか安穏なれ仏法ひろまれ」の願いに生きる

    真宗出雲路派 常用勤行集より

教義の特質

浄土真宗の教えを一言で言うと、「阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申せば、この愚かな身が救われて仏に成る」という教えです。親鸞聖人は私達凡夫の実態を深く見つめられ、本願念仏でしか私達凡夫はどん底から救われないという事を顕彰されたのであります。

更に、細かく見ていくと、他力本願・悪人正機・報恩念仏の3点が主に浄土真宗の教義の特質であると言えます。

他力本願

他力というと「他人まかせ」という意味で誤解されてしまいがちですが、そうではありません。他力とは阿弥陀仏の本願のことをいうのであります。

本願とは、真宗の根本聖典である『仏説無量寿経』に説かれているもので、阿弥陀仏が悟りを開く前、まだ法蔵菩薩という菩薩のときに起こした四十八願をさすのであります。

その中でも、特に第十八願は、「私が仏となった時、あらゆる衆生が、私のまごころを受けとって、疑いなく信じ、私の国(浄土)に生まれようと願って、南無阿弥陀仏と私の名前をとなえるであろう。もし、生まれることができないのなら、私は仏とならない」と誓っている。この誓いを、長期間の修行によって成し遂げ、悟りを開いたのが阿弥陀仏である。

しばしば、他人まかせで何もしないという意味で「他力本願」と誤用されることがありますが、本当は、阿弥陀様の方より智慧と慈悲を恵まれることによって、力強く、明るく、精一杯生きぬく人生が開かれてくるのであります。

悪人正機

「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(『歎異抄』第3章)という言葉が、悪人正機を語るものとしてよく知られております。この文言を聞いて「悪人でも往生できる」と誤解なされている方がいらっしゃるかもしれません。

しかし、この文言を正確に現代語訳いたしますと「善人でさえ、浄土に往生できるのだから、善人はもちろん往生できないはずはない」となります。この現代語訳を聞いて、素直になるほどと思われる方は少ないと思います。一般的な考え方だと、「悪人が往生できるのだから善人はもちろん往生できる」となると思います。

しかし、親鸞聖人は「善人が往生できるのだから、悪人はもちろん往生できる」とおっしゃっております。これは私達が考えている善と悪と、親鸞聖人の考えている善と悪が違うからなのであります。

私達の考える善人とは、法律や道徳を守る人間の事を指し、悪人とはそれらを守らない犯罪などに手を染める人間の事を指します。しかし、親鸞聖人はそういう区分けも、もちろんあったはずですが、ここでの善人とは戒律を守り、修行を積み、自らの力で成仏、つまり、仏になれると信じている人を指し、悪人とは、戒律を守ることも、修行を積むこともできず、欲望や煩悩が渦巻く人、私達凡夫の事を指しているのです。

このような私の姿に気付かせ、同時にそのまま救い取ってくださるのが阿弥陀如来の慈悲であり、そのこころを表すのが「悪人正機」という言葉なのであります。

報恩念仏

浄土真宗においての念仏は、『歎異抄』の第1章に「念仏もうさんと思いたつ心のおこるとき」とあるように、自然と口からほとばしる念仏であるから、何かをお願いする念仏でもなければ、行(=修行)としての念仏でもなく、しなければ救われない、といった念仏でもないのであります。

すなわち、阿弥陀仏の本願によって救われるという事を知り、思わず称える報恩感謝の表現としての念仏であり、現代的に解釈すれば、『南無阿弥陀仏』=『ありがとうございます』という意味であるといえます。