浄土真宗の教え

善源寺は、浄土真宗・親鸞聖人の念仏の教えを広めるべく、昭和51年より埼玉県の越谷市・春日部市・吉川市・草加市・三郷市を有する東埼玉エリアに属する松伏町にて、開山いたしました。その浄土真宗の教えについて解説致します。

他力から絶対他力へ

『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』の口称念仏(こうしょうねんぶつ)によって往生できるとしたのは、浄土宗開祖法然上人でした。その法然上人の他力思想を更にすすめたのが親鸞聖人の絶対他力の教えであります。

親鸞聖人は、救いを求める人が、あらゆる自力を捨て、阿弥陀仏の本願を信じる事によって救われると説いておられます。

『歎異抄(たんにしょう)』の中に「念仏は行者の為に、非行・非善なり」とあります。つまり念仏する事も自力の行ではなく、阿弥陀仏の本願力、すなわち他力だというのであります。

悪人正機 悪人こそ往生が可能

「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」『歎異抄』の有名な法語であります。悪人こそが往生できる素質を持つとする言葉となります。

ここでいう悪人とは、一般的な善人・悪人ではなく、自力で善行を積む事が出来ない、煩悩(ぼんのう)を持つ救いようのない凡夫(ぼんぷ)を示します。

親鸞聖人は、このような悪人こそ、阿弥陀仏のの願いによって救われるとしました。自力で善行を積む事の出来る人は他力の心が欠けているからこそ、阿弥陀仏の本願ではないとしております。

しかし悪人正機は、いわゆる「造悪無碍(ぞうあくむげ)」とは違います。悪人こそ救われるからといって、どんな悪い事をしても救われる、悪い事のし放題というのは、曲解となります。これを「造悪無碍」といい、厳しく戒めているのであります。

悪人正機(あくにんしょうき)とは、自らが罪を犯さずには生きていけない。という人間の自覚に根差した教えだといえます。

念仏は阿弥陀仏への報恩感謝

他の一切の行をせず、ただひたすらに念仏を称える事を「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」といいます。これは法然上人の説かれた教えであります。

これに対して、親鸞聖人の説く念仏は、阿弥陀仏の大慈悲を知り、自然に称える念仏であるとされます。

つまり、阿弥陀様に感謝する念仏である。これを『報恩念仏(ほうおんねんぶつ)』と呼んでおります。

信心」の決定 行と信

「行」とは、『南無阿弥陀仏』と称える事。「信」とは、仏の教えを信じて疑う事のない「信心」の事であります。浄土真宗においては、その信心は、阿弥陀仏から賜ったものであり、凡夫の側から起こすものではないとされております。

浄土真宗においては『南無阿弥陀仏』という仏様より差し向けられた功徳、すなわち他力回向(たりきえこう)の中にすべてがあるとするのであります。

したがって、阿弥陀仏を信じ、念仏する者は、生活そのものが阿弥陀仏への報恩となるのであります。「ありがとう」という言葉が、すべての人、事柄に対して自然に出るような生き方がしたいものです。

浄土真宗と在家主義

親鸞聖人は、妻帯し結婚生活をした事で知られている。また、僧侶の身分を奪われ、俗名のまま越後へ配流された。その時の親鸞聖人は、僧侶でもなく俗人でもなかった。これが非僧非俗(ひそうひぞく・僧に非ず俗に非ず)と呼ばれているものであります。この事は僧と俗を超え、人間は等しく平等であるという立場の表れといえます。

このような親鸞聖人の立場は、当時の民衆にとって、大きな励ましになったのでありましょう。在家仏教に与えた影響ははかり知れないものがございます。