時代の節目と文化の変化

世代交代していく社会

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古今どのような国のどのような文明を見ても、発生してから、成長し停滞しそして衰退していきます。これには社会そのものの仕組みや、文明が生き物のように世代交代をしていくからです。その世代交代や社会の変化に応じて、習慣や風習、人々の生活なども変化していきます。では、現在のわたしたちの生活する社会である日本という国は、どのように変化してきて、どのように変化を始めているのでしょうか。

日本なのか日本ではないのか

現代の日本の社会のもととなったのは江戸の文化です。それ以前の日本というのは、統治の体制が全国的なものではなく、むしろそれぞれの自治体としてそれぞれの地域を統治していました。そのため、日本という大きな単位でのまとまりやルールはあまりなかったのです。例えば戦国時代は統治者による歴史の区分として見るならば室町時代に当たります。そもそも日本全体の支配者は古来より続く天皇家でした。その政治の権利を室町幕府が天皇から貸借する形で足利家が政治を行なっていました。その足利家がそれぞれの地域を守護大名に任せていました。その後、応仁の乱などの影響もあり、守護大名や有力な豪族が自らの土地を自分の領土として扱いました。戦国時代には分国法などと呼ばれる法令がそれぞれの領土で作られました。これは現在の地方自治体による条例に当たります。しかし、根本的な違いとして、現在の日本のシステムのように、まず憲法があり、そしてその下に法律があり、そして条例があるというような重層関係になっているわけではないのです。法令同士の力関係ははっきりしており、上の法令に反するものは作ってはいけないことになっています。しかし、戦国時代の日本では、首都である京都が戦乱の中にあったことや政治機関が複数ありきちんと機能していなかったこと、そして街道が整備されていなかったことから情報の伝達がきちんとおこなわれていなかったことなどもあり、その地域の統治者が出す法律がすべてでした。こうした状況をかんがみるのであれば、日本という国が、国と言う単位で成立し、まとまった形での政治体型と言えるようになったのは江戸時代が初だと言えるでしょう。

文化を育み、それを定着させる戦乱のない時代

革命

江戸時代という長い平穏の時代は、現在の日本の歴史を語る上で欠かせない時代であり、現在につづく多くの日本文化というのはこの時代に作られています。たとえば現在、女性の晴れ着として扱われる振袖や留袖、訪問着などの文化はこの時期に作られています。また多くの伝統文化である、歌舞伎や能といった芸能、そして浮世絵やさまざまな文学作品などが作られました。現在も残る多くの習慣はこの時期に作られているのです。

その理由として法令が日本全体という規模で適応された始めての時代だからというのもあります。そうした江戸時代に全国的に施行された制度で現代にも大きな影響を与えているものとして檀家制度があります。これは江戸時代に確立されたシステムで、現在の日本の葬儀の方法などの原型を作りました。

この寺請制度や檀家制度などと呼ばれるシステムが江戸時代に作られたのには政治的な要因が非常に多くあります。日本全国を統治していく上で宗教や思想などに対する統制を行なう必要があった江戸幕府は、邪宗門とされたキリスト教や一部の仏教を邪教として弾圧しました。民衆がどのような宗教を信仰しているのかということを登録制度にし、宗門改め帳という一種の戸籍のようなものを作り、宗教統制を行なったのです。各寺院について本末制度という制度を設け、そのお寺がどのお寺に所属しているのかということを明文化させました。お寺は重層構造で必ず上下関係のある状態にし、その末寺に宗門改めの任務を負わせたのです。こうして所属のない寺院はなくなり、その本山となるお寺が存在するようになりました。この本山を統制することによって民衆の宗教を統制しました。ここに登録されていない人間は無宿人として社会的な立場を認められず弾圧される対象となったのです。

檀家と呼ばれる寺院に所属する民衆は、自身が所属する寺院に対しての寄進などを強いられました。このように寺院はその所属する檀家に経済的な援助を受けることになり、また檀家側はその所属する寺院に身分を保証されることによって社会的な保証を受け取ったのです。また、出生届や死亡届、各種法要の申請を行なうことによって、寺院は民衆の戸籍を管理する江戸幕府の出先機関のような立場になりました。また葬式や墓地の管理などを一手に引き受けることによって、檀家から金銭的な授受を受けたのです。それまでの寺院は自発的な寄進とその寺院の所有する土地からの小作料などで金銭を賄っていました。それまでのお寺というのは修行の場であり、また学問の場でもありました。しかし、この寺請制度や檀家制度と呼ばれるシステムの導入によって葬式仏教と呼ばれる葬儀業者としての寺院の役割や地域を統括する役所としての役割が強くなっていったのです。

このころに成立したこのシステムが現在にも大きな影響を与えています。江戸時代の初期に確立したこのような寺請制度のシステムは、公式には時代が江戸から明治に変わった段階でリセットされ刷新されることになりました。しかし、長く続いたこのシステムは定着していったのでした。

明治における仏教の立ち位置とは

善源治

江戸時代から明治時代への変化はそれ以前の時代の移り変わりとは異なり、為政者の関係や文化的な面も含めて大きな変化となりました。そもそも江戸幕府というのは室町幕府と同じで征夷大将軍という身分を譲渡され政治を行なうシステムでした。この国の主権者であり統治者である天皇家から政治を行なう権利を譲渡され、それによって政治を行なうというシステムです。江戸時代から明治時代になるにあたって、江戸幕府の主権者であった徳川家はその政治の権利を大政奉還という形で返却しています。新しくできた明治政府は、その政治のシステムを長く続いた江戸時代のものから刷新し、諸外国のような近代的なシステムに変更しようとしたのです。そのため、特定の宗教に戸籍などの管理を寺院に委託する寺請制度はその目的にそぐわないものになりました。

明治政府は太政官布告と呼ばれるお触れを出しました。その内容は神仏分離令という江戸時代に混合してしまった神道と仏教を分離させるものでした。仏教の勢力が強くなり、多くのものが仏教に取り込まれてしまっている江戸時代とは異なるということをはっきりさせるのがその布告の目的でした。また鎖国を行なっていた江戸時代とは異なり、欧米諸国がキリスト教の布教を認めるように要請したため、江戸時代のように弾圧や統制という形で宗教統制を行なうのではなく、日本本来の国教である神道が日本の国教であるということを国民に示すためでもありました。

そうした布告はそれまでの仏教による統制に対する反動と民衆の拡大解釈から廃仏運動と呼ばれる仏教の排斥に繋がったのです。しかし、こうした世間の流れにも関わらず、葬儀や埋葬のシステムは江戸時代に長く行なわれてきた葬式仏教的なものが続いていったのです。たとえばその埋葬方法として江戸時代には都市部で火葬が行なわれていました。元来の神道では埋葬方法として火葬ではなく、土葬に近いものが旧来のものでした。そのため明治政府によって火葬の禁令が出されました。実際は一度定着した社会的システムを変更することは難しく、従来の火葬のシステムが使われたため明治政府はその禁令をわずかな期間で撤廃することになりました。結果としてその後も江戸時代に確立した習慣やシステムが葬儀や埋葬のシステムが続けられたのです。その背景としては、明治時代に入り、その寺院の所有する小作地の所有権を明治政府が認めなかったことなどもあり、寺院はその収入を葬儀や法要などを行なったときの寄付金に頼るほかなくなったということもあります。

檀家制度の崩壊の始まり

その後、戦後に至るまで檀家制度をもとにした葬儀や法要のシステムは続けられました。葬儀や供養は懇意のお寺に頼むもの、そうした判断が当たり前のものとされたのです。しかし、このような当たり前が、当たり前ではなくなる時代が訪れました。それは人口の流動が激しくなったことから従来の懇意のお寺で葬儀や法要を、ということが難しくなったことにあります。

産業の発展やインフラの整備、都市部における労働供給の増加など要因から人口の流動はどんどんと活発化していきました。そこで起こった問題というのは、懇意のお寺に葬儀や法要を頼まない以上、どこに葬儀を頼んで良いのか分からないということです。それまでお寺や地域によって行われる葬儀がほとんど行われていなかった以上、それ以外の選択肢がありませんでした。埋葬や遺体の処分を行なうという意味で多くの火葬場や霊園などが国や自治体によって作られました。これは埋葬というものが国による公衆衛生の管理の一環であるからです。しかし、葬儀そのものというのは宗教的な儀礼であり、本来生活していくということだけを考えた場合必要のないものでもあるのです。そのため、葬儀に関しては国そのものはなんらかの方法で公共サービスを提供することはできないのです。

そのような状況下で都市部を中心に少しずつ増加したのは葬儀業者でした。従来のお寺のようにその地域の葬儀を請け負う業者が自然発生していったのです。その儀式的な面は旧来のように仏教の宗教者によって行なわれていました。戦後から20世紀末までに行なわれた葬儀というのはこのように従来の葬儀の方法と業者などによって行われる新しい種類の葬儀の方法が混ざり合う方法になったのです。

伝統的な菩提寺のお墓から、郊外の霊園への移り変わり

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お墓に関しても同じように変化が起こりました。江戸時代にはその地域で埋葬までを行なっていました。しかし、移動が激しくなってくると親や祖父母の代から続くお墓を使うということが難しくなりました。実家のある地域に生涯住み続けるということが少なくなってきた現代では、都市部に移住した多くの人がそこでお墓を作るようになりました。

戦後からバブル景気までのこの時期、日本は日本の歴史上なかったほどの繁栄を迎えていました。所得倍増が叫ばれ、高度経済成長期として世の中の様相はどんどんと変わっていきました。マイカー、マイホーム、そしてお墓。画一化が進む一億総中流の世の中では、みなが持っているものを持つのが当たり前とされ正しいことだとされたのです。都市部から少し離れた地域でお墓を作ることは20世紀後半のトレンドであり、多くの人がそのようなお墓のスタイルを求めたのです。一般的な家庭というのは、長期の休みなどに郊外にあるお墓にマイカーで行くというのが当たり前とされたのです。お墓参りに行くということは、本来の宗教的儀式というよりも家族のひとつのレクリエーションとなっていました。そのため都心部や都市近郊でのお墓の需要は高まり、公営霊園などでの供養を希望する人が過剰になりました。お墓を建てることを希望してもなかなかお墓を建てることができないという状況が発生したのです。一方で従来使用されていたふるさとにあるお墓は利用されなくなりました。自身の実家にあるお墓に行くことが難しくなり、定期的にお墓の掃除をしたりなどの手入れをが難しくなったからです。交通機関や産業の発展は人口の流動を刺激し、結果として地方が便利になるのではなく、地方の過疎化を加速させることになったのです。その過疎化の影響は従来のシステムにも影響を与えることになりました。これが檀家システムなどを終わらせる大きな要因になったのです。

葬儀業者の増加とその要因

それまで葬儀や埋葬に関して独占的であった寺院に対して、新規参入業者として多くの葬儀業者が葬儀のサービスに参入してきました。特に葬儀や霊園に関して供給不足であった都市部でそうした業者が増えていきました。2009年以降大手流通業者やホテル、電鉄、コンビニなど多くの分野からの葬儀業界への参入が相次ぎました。その結果として、それまで不透明であった、葬儀の内容に関する明示や料金の透明化が進んでいきました。そうした葬祭業界全体に対する透明化は、逆に消費者に対して疑念を抱かせました。そもそも高額の費用を葬儀に掛ける必要があるのか、という疑問です。

2010年以降、葬儀や供養に関する関心は急激に高まっていきました。高度経済成長期には当たり前だとされた一般的な葬儀や供養の方法が本当は不要なのではないかという声も挙がるようになっていったのです。高度経済成長期にそのような葬儀のシステムが成り立った背景としては経済的要因があります。

発展途中の経済の中では、新たな産業が雇用を生み、雇用が消費を生み出します。そしてその消費は新たな雇用を生むため、消費がどんどんと拡大していくのです。余剰の家計は文化的なものに対する投資を生みます。バブル期の日本で、多くの会社が絵画や文化事業などに投資をしたのもそのひとつです。親の世代より子どもの世代の方が生涯所得が多くなれば、葬儀や供養などもどんどんと華美になっていきます。しかし、そうした消費を仲立ちにした経済成長には限界が訪れます。必要のないものが増えればそれだけ消費に対する疑問が発生します。一度その成長に疑問が起これば、消費に対して慎重な消費者が増えていきます。消費に対する疑問は消費の減少を、消費の減少は雇用の減少を。雇用に対する不安があれば、また消費は減少していくのです。一度過剰というものを意識した社会では経済成長は停滞していきます。またそうした成長の止まった社会では、生活に対する不安が発生します。そうした不安などから人口の増加は停止し、それがまた消費の減少を引き起こしていくのです。最初に挙げたように、どのような文明や社会にも一定の成長ののちに停滞が発生します。そうした社会では緩やかに人口は停滞していき減少していくのです。

人口の減少による「無駄」の削減

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今いる世代よりも、次の世代の方が人口が少なくなれば、その分消費も減っていくでしょう。そうした社会の中では無駄は排除される傾向にあります。コストパフォーマンスが叫ばれるようになり、それを意識した結果として従来の葬儀や供養の方法に疑問が持たれるようになりました。具体的な物品や利益をもたらさないサービスに対して費用を抑えるようになっていったのです。

冠婚葬祭というものは全て儀式です。成人式、結婚式、葬儀、法要にはその中に社会的役割を内包してはいます。しかし、現在の社会的な役割だけを考えた場合必要のない部分も多くあります。たとえば、成人式に関しては特に出席しなくてもなんら社会的問題はないでしょう。結婚式についても同様で、婚姻届というものをきちんと役所に提出することができれば結婚式自体を行う必要性は何もないでしょう。葬儀は極端な言い方をするのであれば遺体の処理を行う一連の作業です。火葬する、遺骨の処分をするということさえできれば問題はないのです。法要に関してもこれは同様で、先祖の霊を供養するという儀式は、血縁者を集めるお祭りであるだけで、そこに物質的な利点は何もないのです。しかしこの時代まで冠婚葬祭が残っているということはそこには物質的ではなく文化的に利点があるというのは事実です。

しかし、現在では費用の面から、結婚式を地味に行ったり、そもそも結婚自体を行わなかったりする人が増えていきました。同じ理由で、葬儀や法要に関しても費用の面から行わない人が増えてきました。これは経済成長とともに起こるものであり、経済、人口、文化などの要素が絡まりあって起こるべくして起こったことなのです。

時代の移り変わりが起こるのは

日本というひとつの集合体を江戸時代以降に見た場合、その平穏な時代の中で緩やかに経済、文化が発展していき、そして人口が増加していきました。長い年月をかけてシステムは形骸化していき、社会は退廃していきました。革命である明治維新が起こり社会はシステムも文化も刷新していきました。停滞は終わりを告げ、新たなシステムの中で社会は発展をしていきました。明治、大正、昭和と発展を遂げ、欧米と肩を並べつつあった日本はもうひとつの大きな契機にさしかかりました。それは第二次世界大戦です。この大きな大戦ののち、明治維新のときのように政治システムや社会や文化などが刷新されました。この大きな変化によって再び日本は大きな成長を遂げます。日本は急速な発展を遂げ、その発展は1979年に出版された有名な作品「ジャパンアズナンバーワン」にも評されたように、世界でも有数の経済大国になっていったのです。

しかし、近代の日本が発展と刷新を繰り返してきたように、古代から多くの文明がそうであったように、永久に拡大し続ける社会は存在しません。少しずつ緩やかになっていった成長は、経済的な面でも人口的な面でもいつか停滞するときがきます。そしてそこから緩やかな後退が始まるのです。

そういった意味では、現在の日本で起こっている、結婚式や葬儀の簡略化は当然のことなのかもしれません。その始まりである江戸時代にはそこまで華美な儀式は行われていませんでした。しかし、経済の発展と共に形作られてきた冠婚葬祭という儀式は少しずつ後退していく局面になりつつあるのかもしれません。

人が減っていく、ということの問題

人口の減少が引き起こすものとしてもうひとつの問題があります。それは後継者問題です。かつての日本は三世代が同じ家庭で生活をし、お互いに助け合っていました。世代が下にいくに連れて人数が多くなるという状況が当たり前だったのです。そのため、家の維持やお墓の管理などを行う際にも複数人で事に当たることができるため、どちらの維持に関しても大きな問題は発生しませんでした。しかし時代は変わり現代、その人数は減っています。2013年の内閣府の発表によると、合計特殊出生率は1.43でこれから人口がどんどんと減少をしていく傾向にあるのです。かつて3人以上で支えたものが2人未満になっていけば一人当たりの負担は増加します。一人息子と一人娘の子どもということになれば、祖父母に対する負担は4人分ということになります。また引き継がなければならないお墓もふたつあるということになればその管理は非常に困難なものになるでしょう。人口の増加とともに日本中に増加したお墓ですが、人口が減少していくこれからを考えた場合にお墓が減少していくのも当然のことでしょう。

2010年頃から墓じまいという言葉が一般的にも聞かれるようになりました。これはすでに不要になったお墓やこれから引き継ぐ人間がいないお墓などを処分する活動です。かつて親や祖父母、ひょっとすればそれ以前の先祖が建てたお墓を管理ができないなどの理由から処分することになったのです。そしてそれは同時に新しいお墓を作らないという選択肢にも繋がりました。

広がりつつある新しい供養方法

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最近広がりつつあるお墓の利用方法として永代供養というものがあります。かつてお墓や遺骨は遺族が管理をし引き継いでいくのが当たり前だとされていました。しかし、経済的に先行きが見えない状況や後継者の人数が減少している現状では、なかなかそうした管理を続けていくのは難しくなってきているのです。また終戦直後には1%台であった生涯未婚率は現在男性で20%女性で10%にまで上昇しています。それだけ多くの人に子どもがおらず、後継者のいない状態になっているのです。

永代供養というのは、霊園管理者に遺骨を預ける供養方法です。通常の家族墓や個人墓を使った供養の方法とは異なり、埋葬したあとの後継者を必要としません。永代供養の場合遺骨は霊園にある納骨堂や合同墓などに供養されます。合同墓で供養する場合は石碑やモニュメント、そして樹木などを墓碑として使用します。遺骨はその足元に埋められることになります。当然のことながら、遺骨は個別に埋葬されるわけではありません。そのため遺骨をそこから引き上げることはできません。しかし、そこに一旦埋葬すれば、問題なく遺骨の処理を行なうことができるのです。後継者のいない人はお墓を管理してもらうことができません。そのため、通常のお墓を使った供養を希望することができないのです。しかし永代供養を行なえば後継者の問題は解決することができます。

また従来行われてきた供養というものは墓守であるお墓の後継者に管理費用を支払ってもらったり、お墓掃除をしてもらうなどの管理をしてもらう必要があります。こうした負担というのはもともとその家に関する多くの人やその家の財産などによってまかなわれてきました。そのため、ひとりずつの負担が少なくなり維持管理をすることができたのです。しかし現状ではその維持管理を人間が減少しているためひとり当たりの負担が増加しているのです。負担の増加によって維持管理が難しくなり、墓じまいをせざるをえないという状況が発生し、そのため永代供養を行う人が増えているということもあるでしょう。

自然に還すという選択肢

遺骨を保持し続ける場合、その遺骨が自然に回帰できないという問題点もあります。本来生き物が死ねば自然に還るのが当たり前だと考える人もいます。そうした人の場合は遺骨を保持し続けることよりも早く自然に戻る方法を選択することがあります。先に挙げた永代供養の一部もそうした方法のひとつであり、また近年増えつつある散骨などの方法もそうした方法のひとつです。

一般的に勝手に遺骨をどこかに散布した場合、これは死体遺棄などに問われることになります。きちんと正当な方法で火葬をした場合でも、警察に事件性のある形で判断されるような方法での処分は認められていません。そのため、墓地や霊園ではない場所に遺骨を埋葬するのは法に触れることになってしまうのです。しかし、警察に事件性がないと判断される形で、かつ地中に埋葬する形でなければ、散骨という行動は法には問われないグレーゾーンになります。遺骨の破片の最大サイズが2ミリ以下になるようにきちんと処分をしたうえで、地中に埋蔵する形ではない形での散骨は現在法律では黙認という形になっています。自治体によっては条例で禁止されているケースもありますが、周辺住民に迷惑をかけずに所有者の許可を得た山林や周辺の漁業権を持つ組合に迷惑の掛からない形での海洋での散骨が現在では行われています。

新しいハイテク供養

少し変わった供養の方法としては、散骨の一種としてバルーンに乗せて上空から散骨するバルーン葬、ロケットに乗せて宇宙に飛ばす宇宙葬などもあります。また手元供養する場合でも骨壺に入れたまま保持し続けるのではなく、遺骨を特殊加工して人工ダイヤモンドにし、アクセサリーにするなどの方法もあります。

インドでは、遺骨を高温で焼き上げることによって遺骨を遺さない方法で遺体の処理をしています。また北欧では液体窒素を使って遺体を処理し、高速で振動させることによって遺体を遺さず砂にしてしまう方法なども開発され現在導入されつつあります。

50年前では考えられなかった供養が行われるようになってきました。これは人類の人口が以前なかったほどの数になっており、その増加がこれからも続くからでしょう。食料や居住地の問題以外に埋葬の問題もこれから人類が向き合っていかなければならない大きな人口問題になるでしょう。

変わりゆく時代の中で

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時代という言葉は、長い年月を区切るために使われる言葉です。現在のわたしたちは長く続く戦後という時代の中に生きています。ひとつの時代の中で社会は形成され、成長し、停滞してそして解体されます。江戸から明治へ。戦前から戦後へ。近代以降の日本の大きな変化は外国による影響を受けて起こっています。そこには戦争があり、それによって社会の様相は変化してきたのです。グローバル化が進む現代では、その二例のように突然外国の影響を受けて社会が変化していく可能性は低いでしょう。かつてなかったほどの平和な社会の中でわたしたちの生活は成長し、そして停滞し始めています。そうした社会背景の中、さまざまな儀式や習慣などが失われていくのは仕方のないことなのかもしれません。その中でも以前と違う方法が生まれ定着していくのは当たり前のことなのでしょう。現在新しい方法と考えられている永代供養や散骨、そしてさまざまなハイテク供養が一般的になる日が来るかもしれません。

そうした変化の中、霊園や葬儀業者も少しずつ変わりつつあります。利用する方が満足の行く方法で供養や葬儀が行えるよう、その方法を少しずつ改善しているのです。

埼玉県でのお墓探し

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光輪霊園は埼玉県の東部地域松伏町にある霊園です。寺院の境内にあるお墓ではありますが、霊園という名称でもありますように宗旨宗派を問わず利用することができます。また変化しつつある現代の供養の形に対応できるよう、伝統的なお墓を使った供養の方法のほかに、俱会一処という合同墓や納骨堂を使った永代供養付きの供養、樹木葬形式での合葬墓もございます。

越谷、春日部、吉川などからお墓参りに来ることができるよう70台の専用駐車場もございます。また、公共交通機関でお越しいただくこともできます。

埼玉県東部地域で霊園をお探しの際は光輪霊園にご相談ください。