平成27年掲示法語

1月の法語

法身(ほっしん)の光輪(こうりん)たたへたる

「一々華」より

法話

南伝 仏歴 二五五八年

新春に真宗出雲路派(しんしゅういずもじは)本山毫摂寺(ほんざんごうしょうじ)第二十四代法主藤光曜(ふじこうよう)猊下(げいか)の御句をいただきました。

元旦は何といってもまず如来のみ光にあわせていただき、お念仏することから始まらなければならないとの思し召しです。

人間の愚かさ・世の冥闇(やみ)は、如来の智慧光によらなければ開明されません。

今年も慈光に導かれる一年でありたいものです。

2月の法語

このみ法(のり) 聞くを得(う)ることの かたきかな 我かしこしと 思ふばかりに

一蓮院 秀存

法話

同行
『このみ法(のり)』ってなんですか
住職
仏法のこと。如来のお喚び声です
同行
『聞き得(う)る』というのは?
住職
聞いて肚に落ち、念仏が出ること
同行
そりゃ簡単にはできませんね
住職
そこですよ、自分は賢いと思い上がっているからです
同行
でも私、特別偉いとは思っていません
住職
そう、偉いとは思っていなくても、自分は愚かだ、迷っている人間だとは思っていないでしょう
同行
だって教育は受けていますよ
住職
その教育が問題です。知識は増えるが、知識が増えるほど自己の内を観る眼が曇ってしまう。その曇りを破る如来の智慧の光に遭う時、我が愚かさが知らされ、『このみ法』が聞こえるのです

3月の法語

人生に絶望なし いかなる人生にも 決して絶望はない

中村 久子

法話

高山に生まれた中村久子さんは、三歳のとき、特発性脱疽(とくはつせいだっそ)という病気で両手両足を切断し、苦難の一生が始まりました。

しかし、優しい祖母の励ましと、わが子の自立を願う母の厳しい躾けのお蔭で、手足のないまま文字を書き、縫物、編物をこなす独特の方法を身につけました。

二〇歳で”だるま娘”という名で興行界に入りますが、書家沖六鵬(おきろくほう)氏、障碍者座古愛子(ざこあいこ)氏、宗教家伊藤証信(いとうしょうしん)氏などに啓発をうけ、さらに四一歳でヘレンケラー女史に会い励まされます。

そして四二歳で福永鵞邦(ふくなががほう)氏から歎異抄を紹介されお念仏の喜びを知り、四六歳で興行界を去って著述、講演、施設慰問等に活躍し、六五歳で厚生大臣賞を受賞。

七二歳で遂に「絶望のない生涯」を全うされました…三月一九日でした。

手足なきみにしあれどもいかさるる
         いまのいのちはたふとかりけり椛

4月の法語

ナムアミダブツは 羅針盤 人生航路の 羅針盤 いつも西方 指している 称えるままが 西の方 ナムアミダブツ ナムアミダブツ

木村 無相

法話

入学、入社など、若い人達は新しい人生航路に乗り出す希望にみちた時期です。こういうとき高村幸太郎の言葉が光ります。

「いくら回されても 針は 天極を指す」

磁針は、下の台をどれだけ回しても、常に極をさす。同様に人生航路が波乱万丈であろうとも、しっかりとした磁針・羅針盤をもっていれば、きちんと目標に達することができるのです。新人に贈るべきよいことばです。

しかしこれは新人だけでなく、人間誰にも通じることではないでしょうか。人生毎日どこに向かって旅しているのでしょう。ただ徒(いたず)らに明け暮らしているだけで、あてどもなく過ごしているとしたら、せっかく人間という境界に生まれてきても意味がありません。

迷いから悟りへ、娑婆から浄土への道行き・方向づけこそ重要。その羅針盤がナムアミダブツだというのです。

5月の法語

おかあさんのしごと

小学一年 さとうみつる

あかちゃんのせわ ごはんつくり おせんたく かいもの おそうじ ないしょく 「うわっ、たいへんだ」 おかあさんのしごとがいっぱいだ おかあさんがこわれるよ

「子供の深い目」より

法話

五月五日は「こどもの日」、十日(第二日曜日)は「母の日」です。

母と子のつながりほど深いものはありません。お腹にいる時から、出産、育児、子育て、保育所・幼稚園、小学校…進学、就職…へと、母はわが子のために一所懸命働きづくめです。

その母の慈愛は子どもにも通じます。一年生の子でも分かっています。われわれ大人もみな、こういう母の手にかかって育ってきたものばかり。

☆受験の日母の削りし鉛筆をそっと握りて心落ち着く(大阪府 永田和美)
☆心配し母に電話するけれど心配されてその都度終わる(千葉県 叶昌彦)

源信和尚(げんしんかしょう)は阿弥陀仏を「極大慈悲(ごくだいじひ)の母」と言われました。存命の母に感謝し、亡き母にも感謝しましょう…命日を忘れずに。

6月の法語

人の美しい ところが 見える眼を もっている人は 美しい

野田 風雪

法話

花の美しい頃になりました。自然の花はどれを見ても美しい、造花の妙です。

しかし人間の場合はどうでしょう。容姿にも美醜がありますが、その人柄が特に気になります。

ともすると、嫌な言動のみが眼につき、美点は案外見逃したり、極端な場合は、妬みの対象になったりしないでしょうか。

阿弥陀経に、浄土の池の中の蓮華は「青い色には青い光(青色青光)≪以下…黄色黄光、赤色赤光、白色白光≫」があると書かれているように、人もそれぞれの個性で光っているのです。唯それを見極めるのはこちらの眼。

「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」という法然上人の歌のように、こちらの心の池が静か(平等)であれば、真如の月は円く写ります。

念仏しながら平等心を仰ぎましょう。

7月の法語

常識とは、知識ではなく、人間としての感覚・良識である。

辞書定義より

法話

①「これください」「はい、108円です」「なに?ここ100円ショップだろう」「お客さん、消費税8%は常識ですよ」「そうか。でも『神様へ税込ですとお賽銭』という川柳もあったぜ。ここも税込100円にしろよ」「そりゃ無理です。法律ですから」

②「見てよ、あの女。電車の中でメイクしてるわ。今頃の娘さんて常識がないのね」「いや、ある娘さんが言ってたわ。メイクは恋人に見せるためなの。他の人は関係ないって…」

①の場合の「常識」は、誰もが知っている(べき)知識という意味ですが、②では、良識の意味です。

電車には他の人が沢山乗っていても「関係ない」「傍に人無きがごとし(傍若無人)」という態度は、全くの自己中心主義。

人間としての感覚がマヒしています。今時、人間感覚の目覚め・回復が最悪です。

8月の法語

一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり。

浄土和讃

法話

人生にはいろいろな「障り」がありますが、特に人間関係がもつれると悩みます。そのようなとき、相手をみる見方を「転じ」たら案外悩みは軽減されるかもしれません。

税所敦子(さいしょあつこ)さんは歌詠みの達人でしたが、姑さんにいつも厳しく当たられていたので世間でもそれが評判。

ある時、縫い物をしている敦子さんに姑さんが言います。「わたし、このような下の句を作ってみた。『鬼婆なりと人は言うなり』さあ、あんた上の句をつけてみなさい」

一瞬どきっとした敦子さん、「はい。『仏にも似たる心を知らずして』ではいかがでしょう」ここで形勢が一転。それからは姑さんの態度が変わったといいます。

「みな死ぬる人とおもえばなつかしき」(木村無相)念仏者の視点です。

9月の法語

地獄は鬼の火に焼かれない 焼かれるのは罪人だけである

坂東性純

法話

同行
「なぜ地獄の鬼は罪人を火責めにするのに、自分はその火に焼かれないのですか?」
住職
「それは獄卒の鬼も地獄の掟だからです」
同行
「地獄の掟といいますと?」
住職
「罪業を犯した者は、その業が因となって苦の果報を感受する、それを業感(ごうかん)の道理というのです」
同行
「難しいですね。業ってそもそも何ですか」
住職
「業とは行いのこと。殺生、盗み、邪淫(身業)、二枚舌、悪口、デマ、おべっか(口業)、我欲、怒り、愚痴(意業)…こういう悪行が行為の後も尾をひいてその人を苦しめることになる。それが業の報い、つまり地獄なのです。譬えていうと、業感とはクセがその人を苦しめるようなもの。『手癖が悪い』『生活習慣病』などクセが地獄を造るのです。『火の車造る大工はなけれども己が造りて己が乗りゆく』ですよ」
同行
「自業自得ということですね。あぁ、恐ろしい。やはり彼岸の浄土が願わしい」

10月の法語

セトモノとセトモノとぶつかりっこするとすぐこわれちゃう どっちかやわらかければだいじょうぶ やわらかいこころをもちましょう そういうわたしはいつもセトモノ

相田みつを

法話

某女
「だから、私はセトモノとセトモノの間に柔らかい紙を入れるんです。私の家でも、私がその紙になるようにしているんだから、家族同士がぶつからずにいるんです」
先生
「その『私が柔らかい紙』という心が、固い心なのではないですか?」

これは青山俊薫(しゅんとう)先生の法話の一部ですが、人間凡夫がみなもっている「私が」「俺が」という我執(がしゅう)はみな固いセトモノの心です。

「そういうわたしはいつもセトモノ」とわが身の我執が見えていることが大事。それには、いつも浄土の光に照らされていること、いつも浄土の光に照らされていること、いつも念仏が出てくださるということが最も大事なことなのです。

「この光に遇うものは…身も意(こころ)も柔軟(にゅうなん)になる」(無量寿経)

11月の法語

五濁悪世(ごじょうくあくせ)の有情(うじょう)の 選択本願(せんじゃくほんがん)信ずれば 不可称不可説不可思議(ふかしょうふかせつふかしぎ)の 功徳(くどく)は行者(ぎょうじゃ)の身にみてり

正像末和讃

法話

同行
「五濁悪世(ごじょくあくせ)というと阿弥陀経にでてきますね」
住職
「ほう、よく御存で。劫濁(こうじょく)・時代の濁り、見濁(けんじょく)・思想の濁り、煩悩濁(ぼんのうじょく)・煩悩で罪を犯す、衆生濁(しゅじょうじょく)・生きざまの濁り、命濁(みょうじょく)・いのちの濁り、の5つでしたね」
同行
「でもそれは二千五百年昔の話でしょう」
住職
「いや、今でもありますよ。たとえば劫濁(こうじょく)。天災、戦争など現代も止みませんね」
同行
「すると五濁悪世の有情とは我々のこと?」
住職
「まさにそのとおり。苦悩の有情ともいわれる我々を救うために選びとられた南無阿弥陀仏の本願を信ずる他ありません」
同行
「信ずると不思議な功徳がこの身に満ちるというのは、どんな風にですか?」
住職
「本願を信じて念仏すれば、この世から『愚痴が感謝に変わる智慧』をいただき、娑婆の縁つきれば仏に成り、あらゆる人々を救うはららきに入れるという素晴らしい功徳です」

12月の法語

クイズ
Q こぼしてもこぼしても減らないものなぁに?
A 「くちが濁ると?」)

法話

日曜学校で出されたクイズです。高学年の子はちょっと考えてから「愚痴」と答えました。

愚痴とは、本来仏教の言葉で「心性が愚かで、一切の道理にくらいこと。心の迷い。」という意味ですが、日常では「言ってもしかたないことを言って嘆くこと」をいいます。

愚痴は人間の特徴。動物は愚痴を言いません。ということは、愚痴を言うのは、こういう嫌なこと、迷いから逃れたいという願いが、心の底にあるからです。

だからその願いを愚痴話の中に聞きわけてあげることが大切。カウンセラーはいわば愚痴の聞き役、願いの引き出し手です。

阿弥陀様も偉大なカウンセラーです、「そうか、そうか、そんなことがあったのか」とお念仏の中で聞いてくださる。そして愚痴る私を優しく懐きとって、「だから念仏してわたしにまかせなさい」と安心させて下さる。「愚痴が感謝にかわる智慧」を与えて下さるのです。