平成28年掲示法語|越谷・春日部の永代供養なら善源寺

平成28年掲示法語

1月の法語

よくばらない 腹をたてない ぐちをいわない せめて正月の 三日くらいは おれできるかなぁ

相田みつを

法話

平成二十八年(西暦2016年)
南伝 仏歴 二五五九年

いつ読んでも 相田みつを氏の詩は 肝にじーんと響きます。「人間だもの」と、わたしたちの本音を見抜いておられるからです。

仏の光は、こういう凡夫のありのままの姿を照らし出してつつみこみ、さとりの道に導いてくださいます。

今年も浄土の光・お念仏が身に満ちる一年でありたいものです。

『春立つや愚の上にまた愚にかえる 一茶』


2月の法語

大いなる いのちにかえる 日をおもう ナムアミダブツと み名いただきつ

木村無相

法話

同行
「そういわれるとやがて、お耳だんごの頃ですね。」
住職
「そう、二月十五日、涅槃会(ねはんえ)に赤や青、黄の色を入れ、巻いて切った涅槃だんごを子どもの頃もらったのを思い出しますよ。」
同行
「お釈迦様が涅槃に入られたというのも、大いなるいのちに還られた事ですか。」
住職
「そうです。田久保園子さんが小学生の頃、重病になって死ぬのを怖がった時、住職のお父さんが風船をもってきて、割らせて言った『中の空気は外の空気とひとつになっただけでしょ。いのちも同じ。園子のいのちも仏様のいのちとひとつになるだけなの。何もこわいことないよ』と。これで園子さんは大安心できたといいます。」
同行
「無相さんも同じこころだったんですね。」
住職
「そう。三月六日午後一時から第3和上苑で翁の三十三回忌をします。お参り下さい。」


3月の掲示法語

切り身になっても いのちはいのち 殺生の罪は 切れてない

大井玄

法話

仏教では十悪・五悪を説きますが、その第一が殺生罪(生き物を殺す罪)です。生きている魚に包丁を入れるとき、ニワトリを絞めるときには、殺生している罪も感じるでしょう。しかし、切り身になってしまったときは、もう単なる食材・食品。その味や栄養価、値段だけが話題になる。

人に殺生の罪を負わせておいて、自分は切り身で平気…。罪意識のかけらもなく、尊い無償の「いのち」をいただいているのだという感謝の思いもない。それが罪深い私たちの実態ではないでしょうか。そう気づいたら、せめて食前のことばだけでも、心をこめて唱和したいものです。

「多くのいのちとみなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」
そして、食後の「ごちそうさま」も忘れずに。


4月の法語

手に触るる ものみな黄金に する魔力 得て悩み悔(く)ゆ ミダス哀(かな)しも

愚石

法話

ギリシャ神話です。

フリュギアのミダス王がディオニュソス神の父を助けた御礼にどんな願いでも叶えてあげようと言われ、「自分が触る物が金に変わる力が欲しい」と願う。するとその願いが通じ、ミダス王が触る物はみな金に変わる。

木の枝も石も。なんと食べ物や飲み物まで。さあ大変。これでは飢えてしまう。可愛い娘や布団も触ると金になってしまう。ミダス王は後悔して神様にこの力を取り消して欲しいと頼む。「ではパクトロス川で体を洗え」とのお告げでやっと魔力は消えたといいます。

今の時代は、何でもお金を払えばすむとう風潮ですが、お金はあくまでも「対価」です。「真価」は物本来の値打ちであり、労力・奉仕にかけられたご恩です。

レジで魚の代金を払っても、魚のいのちは無償。代金の背後にある自然のお恵みに眼を開きなさいとこの神話で学びました。


5月の法語

人間は食べると骨が成長する 気持ちもいい言葉を食べると 気持ちの骨が成長する

中一 高祖七緒

法話

人間の主な栄養素は、蛋白・脂質・糖質・無機塩類・水ですが、人体の栄養を保ち成長を遂げさせるためには微量だが、絶対なくてはならない有機物ビタミンがあります。

ところが、ビタミンは生体内では合成できないので外から食料として摂取されます。

人間には知育・徳育・体育が必要ですが、今の学校では知育・体育が主となり、人の心の働き知・情・意の中で、厄介なのが情と意。

この情意を陶冶(とうや)するのが徳育。

昔は学校でもかなり厳しく「躾け」られたものですが、躾はまず家庭教育の目玉でした。

「気持ちの骨が成長するいい言葉」とは、この徳育のこと。朝晩の挨拶から始まり、食前食後の言葉。そして忘れてならぬのが仏様の言葉=お念仏。

どれもが必須の「ビタミン」剤です。こどもの日に「いい言葉」をあげましょう。

6月の掲示法語

心に 光が入るのは 耳からだ

ヘレン・ケラー

法話

ご存知のように、ヘレン・ケラーは耳と目と発語が効かない三重苦の人でしたが、手紙でこう書いています。

「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より複雑な事です。聾(ろう)は盲目より不運なことです。なぜなら、それは、最も重要な致命的刺激を失うことを意味しているからです。つまり、言語をもたらし、思考を活性化し、人間同士の知的交際を可能にするのに欠かせない、声という最も重要な音刺激を失うことになるからです。」

小児科の先生によると、人間の感覚の中で最初に発達するのは聴覚。胎児八週で耳が出来はじめ、二十週で音が聞こえるそうです。

仏法もはやり耳で聴聞することが大事。「ナムアミダブツ」という仏の「名声(みょうしょう)」喚び声を聞くことが先決です。

口に称えて聞きましょう。

7月の掲示法語

現代人の宗教に関する間違いは、科学真理追及の眼をもって宗教的真実をつかもうとしていることである。これはどれほど求めても得られるものではない。次元がちがう。

湯川秀樹

法話

現代はともすると科学ですべてが解決すると錯覚しやすいのですが、湯川秀樹博士やアインシュタイン博士なの、本当に科学を窮めた大学者の鋭い洞察にご注目ください。

「知性は手段と目的との相互関係を我々に明らかにしてくれます。しかし、思惟だけでは、究極的で根本的な目的感覚を我々にあたえることは出来ません。この根本的な目的と価値判断を明らかにし、それを個人の感情生活にしっかりと根を下ろせることこそ人間生活であって、まさに宗教が果たすべきもっとも重要な機能だと私には思えます。(アインシュタイン)」

人生は旅だといわれます。どこへ行くのか、何しにいくのか?この人間の生まれ甲斐、いのちの行方を教えるものこそ真実の宗教なのです。正しい教えを聞きましょう。

8月の掲示法語

出す力は 自力である 出る力は 他力である

日野英宣

法話

広島原爆のとき、梁の下敷きになった娘を助け出そうとして、男でも持ち上げられなかった梁を、母親は焼きただれた肩に入れて持ち上げ、娘を助け出して自分はそこで息絶えたという悲話を読んだことがあります。

この時の力は、娘を助けたいという母親の願いの一念から自然に出てきたもの「願力自然(がんりきじねん)」であり「他力不思議」であったと味わえます。

親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり」と仰せです。

苦悩の衆生を何としてでも済(すく)いたいという如来の本願の力によって、自ずからさとりの道に導かれていくことです。

この如来のお慈悲をあら勿体なや、ありがたやと、我が心の底にいただけた時、思わず「南無阿弥陀仏」と出てくるのが他力念仏。わが力を励まして唱え出す自力念仏とは異なり、大いなるものに引かれゆく広大な世界です。

9月の掲示法語

人生はどう生きるかなんだ 長さは重要じゃない

アシュリー

法話

カナダ生まれのアシュリー・ヘギさんは、生後3ヶ月頃から皮膚が硬くなり始め、さらに髪の毛が抜け始めました。

やがてそれはプロジェリアという珍しい病気(全身の老化が異常に早く進み、平均寿命は十三歳)だと分かりました。

しかし、彼女は前向きに病気と向き合い、積極的に子供としての生活をし、その病気では最長の十七歳まで生き、明るい言葉を残しています。

「ハッピーでいられる自分が好き。悪口を言われた時でも、誰か私に怒った時でも、相手に対して怒らないでいられる自分が好き」 「私がママより早く死んでしまうって事をママは受け入れられなかったんだと思う」

こうして、与えられた自分の人生を生き切ったのです。「長寿国」の日本人、考えるべきですね。

あのね死んでからからわかったんじゃおそいんだなぁ(相田みつを)



10月の掲示法語

多忙で仏法聞く暇がないって?どんな大事にたぼうなのかね?

高光大船

法話

住職
「この次の日曜日は永代経ですから、お参りくださいね。」
A子
「ごえんさん、その日はあかんの。会社の慰安旅行です。」
住職
「今度の報恩講に参ってくださいね。待っていますよ。」
B雄
「いやぁ、どうもありがとうございます。もう少し年がいったら考えます。」
住職
「お墓に参られたら、本堂もお参りしてくださいね。」
C介
「でも、親戚ときていますので…。」

仏法から逃げる口実はころがっている。お経では仏法聴聞に八つの難があるといいます。

例えば、長寿の国、住みよい国、世渡り上手で口達者な人等など。

人間、楽しいとつい「大事な」ことを忘れてしまうようです。

次の言葉を銘記しましょう。

「人間に生まれたのは仏法を聞くためですぞ」



11月の掲示法語

我々は如来によって信じられ 如来によって敬せられ 如来によって愛される かくして我らはよく 如来を信ずることを得る

曽我量深

法話

青年Aは、何件もの強盗殺人で捕まる。そのニュースを聞いた盲目の念仏僧N師が青年との面会を申し出る。

漸く囚人Aが出てくる。N師「もっと近くへ、近くへ…」膝が触れんばかり。N師、手を伸ばしてAの顔をなで「若いのう…」と言いつつ首をなで肩をなで、突然ガバーッと抱きかかえ、耳元で一言「あんたは如来の子だよ。」

その晩、Aは眠れない。数日後、Aは署長に申し出る。「早く裁判を…。弁護士はいらない。死刑にして下さい。但し最後に一言云わせてほしい」と…。

判決後、A「私は自分の出生を知りません。捨て子です。学校で親無しといじめられ、後指…ひねくれ、だんだん悪事に走り捕まった。そして今度生まれて初めて抱きかかえられ、人の温もりを感じました。」

人を救うのは裁きではない。慈悲なのです。



12月の掲示法語

回心 自分が可愛い ただそれだけのことで生きていた それが深い悲しみとなったとき ちがった世界がひらけて来た 

浅田正作 『骨道を行く』

法話

「そりゃ、あいつが悪い。あいつがあんなことをしたからだ…。」

問題が起きるとこうして人を責めるが、自分のことは棚上げ。こういうのを仏教 では「我執」といいます。

「我は正しい」「我が意を通したい」「我が一番可愛い」と思う心。これが迷い の根っこです。

『遺産分け母を受け取る人がいない』などというのも人間我執の現代版。

お仏壇というのは、朝晩その前に身を置いて、自分を振り返り、我執で恥ずかし いばかりとうなだれるしかない自分が見え、そこに仏の光がはたらいていること を知る場所です。

ご本尊を仰ぎ、お念仏するとき、自己中心に生きている日常とは「ちがった世 界」が感じられます。

仏法を深く聞きひらくとき開けてくる大悲の世界なのです。



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