平成29年(2017年)掲示法語
1月の掲示法語
南無帰命尽十方の無碍光を たたへまつらむ 初日かがやく (梅原真隆)
法話
平成29年 西暦2017年
南伝 仏歴 二五六〇年
梅原真隆師(昭和41年・82歳寂)は、富山出身、本願寺派勧学寮頭、富山大学長等の要職に就かれた学徳兼備の名師であり、その和歌には念仏の潤いが満ちている。
浄土からの光を初日にいただき、今年こそ「こころ明けまして」の日々としたいものです。
2月の掲示法語
「怒る」「欲張る」 習ってないのに できる僕 (たつお いちょう)
法話
『仏教こども新聞』に載っていた言葉ですが、私たちの心理を巧みに言い当てています。
二歳にして貪瞋(とんじん)の苦あり涙して 姉と争う欲しい欲しいと (西東京市 青柳妙子)
という歌もそうです。わずか二歳の幼子でも貪欲(どんよく)・瞋恚(しんに)の煩悩に胸をたぎらす。
実はそれがこの私の実態、ひいては人間凡夫の本性、娑婆諸悪(しゃばしょあく)の根元です。貪(むさぼり)・瞋(いかり)がなければ嫉妬も犯罪も戦争も起きない。
この抜きがたい人間の業苦(ごうく)を照らし、悲しみ、おさめとって下さるのが浄土の光・お念仏です。ナムアミダブツとお念仏するとき、その光が身に触れはたらいて下さり、また慚愧(ざんき)と歓喜の称名になってくださるのです。
3月の掲示法語
どこにいても 今の私の居る場所が 私の本当の居場所である (野田 風雪)
法話
昔から人生は生々流転(しょうじょうるてん)といい、その一生の間どこに居たかは各人各様です。
特にこの3月から4月頃は、進学、就職、転勤、転職、転居などで、多くの人々は居場所が変わります。「動」の時期です。
曇鸞大師(どんらんだいし)は「動の中で静を失わないのは智慧の力である」と言われています。
「どこにいても」が「動」の意味に当たり、「私の本当の居場所」と心が決まっているのが「静」の意味に通じます。
どこに居ても、念仏しましょう。「動中静あり」です。
いつも智慧の光をいただいて、心に安静を得たいものです。
4月の掲示法語
お光さまがきてくださると こころのもやもやが ひとりでにほぐれてゆくようでございます(榎本栄一)
法話
春先の朝、靄がかかり、車もライトをつけて走ることがありますが、やがて日がでてくると靄は消えていきます。
私たちの心にも「もやもや」が湧くことがよくあります。「くよくよ」「いらいら」「びくびく」「くしゃくしゃ」「・・・」。
そのようなとき「ナンマンダブツ」とお念仏が出てくださると、ひとりでに心が落ち着いてくる。お念仏は浄土からの光ですから、「もやもや」が消えるのです。それが仏智の不思議です。
ネットでは「もやもやの解消法」・・・それにはストレッチ体操だ、音楽だ等々いろんな対処法が出てきますが、お念仏・浄土の光は如来医王の根本治療です。
5月の掲示法語
おかあちゃんはいつもかがみみてきれいやけど あしのうらみたらまっくろやねん あしのうらもかがみみいやゆうてん (むらかみなおこ)
法話
「おとうさんは いつもにこにこして ひとにはじょうずにしゃべるけど ひとがかえったあとは わるぐちばかりいうてんね ひとつの口でようやるねゆうてん」
どちらも大人の盲点を衝いた子供の発言。
子供の目には大人の表と裏との矛盾が如実に写るのでしょう。
他人事だとは言えません。
私自身がこういう矛盾を抱えていながら、気付かずにいるのではないか。
そう思うとき、如来は「もの(人間)の逃ぐるを追わえとるなり(追いかけて救う)」という親鸞聖人の洞察が心に痛く響いてきます。
前向きに仏に順っているつもりが、逃げ・背いている私ではないか?子供の目にはどう映っているのやら…
6月の掲示法語
だぁれもいないひとりのとき おねんぶつさまがこうささやく ひとりぢゃないんだよ ひとりぢゃ (木村無相)
法話
「我、今、帰するところなくして、孤独にして同伴なし(私は今、もはや帰るべき場所もない。たった一人で、友も無く、地獄に堕ちていく)」と源信和尚の『往生要集』に出ています。
無間地獄に堕ちていく者の悲痛な叫びです。
大勢の中にいても真の理解者がいないと孤独、都会の満員電車の中でも孤独、家族の中にいても、疎外されれば孤独。
「いたかともいわれん」人は孤独…。
しかし、如来はつねに同伴していてくださいます。
「仏はつねに見たもう、仏はつねに聞きたもう、仏はつねに知りたもう」
念仏するとき「如来つねにわれと居ます」と安心できるのです。
7月の掲示法語
夏たけて 堀のはちすの 花見つつ ほとけの教え 憶う朝かな (昭和天皇 御製)
法話
この御製は、昭和天皇が昭和63年7月に皇居のお堀に咲く蓮の花をご覧になってお詠みになられたものです。
翌年1月7日に崩御されましたから、病中で仏のお慈悲を偲ばれたことでしょう。
陛下は人が「この雑草」と言ったとき「雑草という草花はありませんよ。どんなに小さな草や花にも名前があるのですよ。」と諭されたといいます。
雑草といわれそうな存在にも、一本一本、一人一人のいのちがある。
そのいのちを全うさせようと大いなる光が注いでいる。
「群萌(ぐんもう)を拯(すく)うために真実の利・名号を与えよう。」と誓われた仏の心も同じです。
8月の掲示法語
善根の螢は招けども来たらず 煩悩の蚊は払えども去らず 雑行の団扇を捨てて 他力嬉しや蚊帳の中 (良寛)
法話
良寛さんは江戸時代後期の禅僧でしたが「おろかなる身こそなかなかうれしけれ弥陀の誓いにあうと思へば」という歌を詠まれているように、他力念仏の教えをよろこばれた方です。
ある時某同行から座右の銘を求められて贈られたのが上記の詩文。
たしかに我々は、未来の楽果を招く善い行いを積む力もなく、煩悩に明け暮れています。
この上は、限りある自力をあれこれ励まして迷いを離れようとする果てしない努力をやめて、その迷いのままを救わんという如来様の広大なご本願を尊くいただき、唯ナムアミダブツと他力念仏にお任せしようと禅師は仰有るのです。
9月の掲示法語
電気を通さぬ 碍子があればこそ 電気は流れる (森政弘)
法話
碍子(がいし)とは、電気を通さない電気絶縁体であり、送電にはこの電気に反対する碍子が絶対に必要である。
自動車を走らせるには、走らせないブレーキが要り、水を通すには、水を通さない鉛やビニールの管がいる。
同じように、自説を通すには、それに反対する人(の論)が要る。
反対者・批判者は敵ではなく、自論を磨くために必要なもの。
正を活かすには、反が要る。
と、東工大名誉教授森政弘先生の名言です。
人生の生も死があるから充実するのであり、死を忘れた生は浮き草・夢幻です。
宗教も同じ。正信には疑謗が逆らうが、その疑謗に応えてこそ正信が立証されます。
愚痴(反)の中でこそお念仏(正)いたしましょう。
10月の掲示法語
涙、涙、涙のゆえにみほとけは 浄きみくにを 建てたまひけり (白井成允)
法話
「涙にやどる仏あり」と題する梶原佑倖(ゆうこう)師の彼岸会法話に感動して思い出したのが白井成允(しげのぶ)先生の上記のお歌です。
先生は広島で原爆に遭われ、またご長男がシベリアで戦病死されました。
「シベリアに 亡せし吾が子が はかりなく 生きてかえると 夢に泣きおり」
どれだけ悲歎の涙を流されたか。しかしそういう涙する私たち凡夫のためにこそ、如来はお浄土を建てられたのだ。
さらに「仮の御身を吾子(あこ)と現はし常住の御法を告げて迅(と)く還ります」との歌もある。
浄土に早く還った我が子は、憶えば如来が仮に我が子となって現れ、私を浄土に導いてくださったのだと、亡き子を仏と拝まれた先生の信心の深さ…。唯念仏のみです。
11月の掲示法語
如来様のいのちの息が 南無阿弥陀仏 還り来たりてわがいのち 親と子供が一つのいのち 一つの息がお念仏 あら ありがたや ありがたや (稲垣瑞剣)
法話
稲垣瑞剣(1885~1981)先生が五分市本山の夏期講演会で熱演され、質問したときのお答えです。
「南無阿弥陀仏」とわが口から出るお念仏が、実は「如来様のいのちの息」だとは!
自分の思いで称えているつもりだったのに、この迷いの私を何としても救いたいという如来の願い、そのいのちの喚び声が、私の称えたみ名であったとは!
しかも、我が口から出て下さる称名の声を聞くとき「還りきたりて」私のいのちになって下さるのだとは!感動の初耳でした。
如来様と「一つの息のお念仏」でした。
12月の掲示法語
仏法って何や?鉄砲の反対や 鉄砲は生きた者を殺すが 仏法は死んだ者を生かす (高光大船)
法話
高光大船(たかみつだいせん)師がご門徒の報恩講に行かれたら、珍しくその家の長男が参っている。
親に言われて仕方なく参ったということ。
そこで大船氏が「あんちゃん、よう参ってくれたのう。せっかくやから何か聞いてみんか」と持ちかけて法語のような問答になりました。
長男「仏法って、棺桶の中の死人を生かすのけ?」
大船「お前みたいな死んだ人間を生かすことじゃ」
長男「何!おら死んどらん、ちゃんと生きるがや」
大船「そりゃ生きとるんじゃなく動いとるだけや。毎日三度のご飯を口に入れると動いてる。ちょうどお前の乗っている機関車で石炭をほうりこむ。すると機関車は動くのと同じじゃ。人間は本当に生きとらんとだめだ。生きる悦びがあるかい?」
師のこの一言に長男は目覚め、それから真剣な聞法が始まり、後で門徒役員にもなったということです。
さあ、私達は本当に生きているのでしょうか。身体・心臓はたしかに「動いて」いますが、心から「生きている、生かされている」という悦びに満ちた一年を送ったでしょうか。
真宗出雲路派 八王子山 了慶寺・掲示法話より