平成30年(2018年)掲示法語

1月の掲示法語

歳旦の 目出度き ものは 念仏かな (句仏上人)

法話
平成30年 西暦2018年
南伝 仏歴 二五六一年

句仏上人(明治8年から昭和18年)は、東本願寺二十三世法主であり、また俳人、画家としても有名なお方、生涯に二万の俳句をされました。

私たちお互いに正月を迎えて、仏前にお参りできるのは大きな喜び、お念仏の他ないとお勧めです。

またこの一年、ご法縁を深めさせていただきましょう。

2月の掲示法語

老いて学べば 死して朽ちず (佐藤一斉)

法話
佐藤一斉(1772~1859)は江戸時代の儒学者です。その語録「言志晩録」に

「少にして学べば壮にして為すあり。壮にして学べば老いて衰えず。老いて学べば死して朽ちず。」と出ています。

「朽ちる」とは「むなしく人生を終える」という意味でしょう。「老いて呆けてくると、欲やら腹立ち、愚痴など、煩悩だけが目につくようになる」といいます。そのまま死ねば、朽ちていく。空しく一生を終わることになります。

老いて「学ぶ」とはむずかしい学問をするということではなく、「学仏大慈悲心(がくぶつだいじひしん)」(仏さまの大悲のお心を学ぶ)のこと。お念仏のいおわれをよくいただけば、仏は成る身となる。人生の最終目標が達成されるのです。朽ちないのです。

3月の掲示法語

してあげた 「のに」つけるから 苦しむの (野地タカ子)

法話
ある高徳な和尚さんが店の前を通ったとき草鞋の紐が切れた。店の女将さんが飛んで出て直してあげる。「あぁ今日はよいことができた」と一日中彼女は心が明るい。

翌朝、彼女が店の前を掃いていると和尚がやって来られる。「やぁ、昨日はどうも」と一言お礼と期待していたが、和尚は見向きもしないで通り過ぎた。

「何よあれ!私が直してあげたのに!」もう女将は面白くない。近所に悪口をつげてまわる。

その噂を聞いた和尚「布施の心を知らぬ者のしたことは不施じゃ。捨ておけ」と言われたといいます。

仏教では、親切(布施)をする時は三つのこと、施者(だれが)・受者(だれに)・施物(なにを)に執着しない(空ずる)こと。「三輪空(さんりんくう)」が大切と説きます。

しかし、実は「のに」と執らわれたいのが我が根性ではないでしょうか。

4月の掲示法語

天命に安んじて 人事を尽くす (清澤満之)

法話
おや、「人事を尽くして、天命を待つ。ではないの?えぇ、そうです。やるだけのことはやった、後の結果がどうなるかは、天にまかせる他ない」というのが普通です。

しかしそこには、全力投球したんだという自負の心、自己満足の心、そして何とか良い結果が出るはずだという期待がある。だが、天の判断がどうなるかの不安もあり、もし結果がダメだったらどんな思いになるのか。強そうで何か暗い一面があります。

それに対して、最初から天命に安んじる、仏のはからいに任せる、その上でみ教えのままに出来るだけのことをする…という生き方には、明るさがあります。如来の仰せに帰命して、任せ切っていく明るさです。

5月の掲示法語

哺乳類一生の脈拍数は20億回 (本川達雄)

法話
東工大の本川教授の著書「ゾウの時間 ネズミの時間」に面白い話が出ています。

哺乳類はみな、象もネズミも一回の呼吸の間に心臓は4回打つ。寿命を心臓の鼓動回数で割ると、どの動物も一生の間の心臓の鼓動回数は20億回、寿命を呼吸時間で割ると、一生の間に5億回呼吸する。

ネズミは数年、象は100年近い寿命だが、心臓の鼓動で測れば、象もネズミも全く同じ長さだけ生きて死ぬのだそうです。

人間も一生の間に20億回も心臓が動くのでしょうか。不思議な話ですね。寿命とは生理学的にも宗教的にも不思議の世界。

まさに「生まれ始めしよりして定まれる定業なり」(蓮如上人)です。

6月の掲示法語

落ちぶれて 袖に涙の かかるとき 人の心の奥ぞ 知らるる (道歌)

法話
「お母さん、行ってきます。必ず立派なお坊さんになって帰ってくるからね。」

「立派なお坊さんになったら別に帰ってこなくていいよ。誰でもお前の世話をしてくれる。しかし、お前が大きな失敗をして誰からも相手にされなくなったり、また病気をしたりしてお寺に居られなぬようになったら、いつでも帰っておいで。お母ちゃんはいつでも待っているからな」

この少年が後に永平寺の北野玄峰という名管長となり、多くの人から仰がれる人になった。

老師は後々、あの別れの時の母の言葉が、自分の一生の支えになったと述懐しておられます。

自分に都合のよい時だけ引受ける「愛」ではなく、無条件にお救いくださる「慈愛」こそ仏の心・如来の大悲です。

7月の掲示法語

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし (正像末和讃)

法話
社員「ただ今サービス週間でございます。どうぞお気軽にお求めください。」

某師「その1週間がすんだらサービスはもうしないのか?」

社員「いやいや、その1週間でお客様を大切にする訓練をいたします。」

某師「お客さまがいなければ、会社は成り立たない。会社・社員はお客さまのお陰で生活している。そのご恩が身に沁みれば、いつもがサービス精神のはず。特別週間を設ける必要はないのじゃないか。」

称名念仏も同じ。仏さまのご恩が深くいただかれておれば、いつでもどこでもお念仏です。特定の日時だけではありません。

8月の掲示法語

死ぬケイコ 出来ぬが残念 ぶっつけで 本番むかえる 不安ぬぐえず (今泉光)

法話
死ぬことの覚悟はすでに出来てるが 初めてなので不安は残る 木村義煕

どちらも毎日歌壇の歌で、死の不安が同じように率直に詠われています。

確かに、死といってもお悔みの欄で見る「あの人」(三人称)の死と、「わが肉親」(二人称)の死は経験できますが、自分(一人称)の死は直接、意識・体験できません。死という現象自体も、死んでどこへ行くかも、如来さまにお任せするばかり。

如来の本願名号を信受できた者は、必ず涅槃のさとりの境界に生まれるとのみ教えです。

真宗出雲路派 八王子山 了慶寺・掲示法話より