江戸時代にはほとんど存在しなかった霊園

日本で一番有名な霊園といえばおそらく多くの人が青山墓地を挙げるでしょう。1872年に神葬祭墓地として作られたこの霊園は1926年に東京市に寄付され日本初の公営霊園となりました。では、できたときには墓地であったのにそののちに初の公営霊園と名称が変更されているのはなぜなのでしょうか。

江戸より前の墓地は少ない?

現代の日本のお墓に関して語る際には、江戸時代という時代を避けることはできません。なぜなら日本の庶民的なお墓の文化が成立したのは江戸時代であり、その影響が多大に現代にも残っているからです。お墓がどこにあるのかということを想像したときに多くの人は寺院を想像するはずです。というのは、お墓の多くは寺院と共にありました。かの有名な清水寺の近くにもその裏側には広大な霊園があるのです。しかし、そうした古くからのお墓は少なく今全国にあるお墓の多くは江戸時代以降に作られたものがほとんどです。実はその背景には江戸幕府が戸籍などの管理を間接的に寺院に任せたことがあります。

現在の墓地と霊園の線引きとは

江戸時代のお墓はほとんどが、寺院の境内か部落の入会地に作られました。そして江戸時代には宗門改めが行われたため、ほとんどの人が仏教を信仰することになりました。そのためお墓の多くが寺院に作られたのです。このような特定の宗教によったお墓の集まりを墓地と言います。諸説ありますが、一般的に墓地と霊園の境界線は特定の宗教のものかそうではないのかという線引きです。多くの墓地は仏教式のものであり、宗門改めのなくなった明治時代以降に霊園が増加していったのです。現在ではその多くは霊園であり、特定の檀家や氏子ではなくても利用できるものがほとんどになっています。

霊園という言葉の雰囲気

また従来の墓地という言葉が持つ雰囲気が少し暗いものであるということもあるでしょう。霊園と言われれば墓地より明るく開けた公園のようなものをイメージすると思います。そのため現在では多くのお墓が霊園と呼ばれているのです。わたしたち宗教法人善源寺運営する光輪霊園も霊園という名称であり、宗旨宗派を問わずご利用いただくことが可能なお墓です。供養の方法も一般的なお墓の利用から永代供養など多くのプランをご用意しております。またお墓としての荘厳な雰囲気は保ちながらも、地域に開けた明るい霊園であろうと尽力をしております。埼玉県東部地域の越谷、春日部、吉川、松伏で霊園探しの際は一度光輪霊園にご相談ください。